旦那は逮捕で不在です。

逮捕じゃなくても大抵不在です。リアルな日常を毎日更新中です。

愛するということ

忘れてはいけない人に連絡するの忘れていました!!

昨日の夜中に旦那の兄弟分からLINEで連絡が来ました。

 

「何故逮捕のこと教えてくれなかったの?」と

 

これはまずい!!

すっかり連絡するの忘れてた!

 

 

「急な事でびっくりしてしまって、子供のこともあるし、1人で不安で、連絡する元気がありませんでした、ごめんなさい。」

 

と敬語で返事をすると、既読になったのに返事は来ず…もしかしたら連絡しなかった事相当怒ってるのかな?と不安になりましたが、寝ることにしました。

 

スマホを確認すると。

「大丈夫だよ、元気出して!何かあったらすぐ連絡してね」だって。

 

怒られるのかと思ったら、意外と優しい…

 

お昼頃には直接「大丈夫だからね!心配しないでなんでも言って!」と励ましの電話。

 

いやしかし、話が長い!

40分は励まされた。

 

昨日送ったLINE、ちょっと深刻そうにし過ぎたかな…

 

すると、また夕方に「一緒に子ども達も連れて夕食を食べよう!」と電話がありました。

 

いや、今日はいいです。家に帰ります。

と一度は断ったのですが。

あまりにも残念そうにするので、結局私が折れて行くことに。

 

お好み焼きを奢ってもらいました。

 

「いや〜、旦那が居ない時にこそ助けてあげないとね」とニコニコ。

 

普段人見知りの激しい子供達ですが、旦那の兄弟分の膝に何の躊躇も無く乗って、我が物顔。

 

本人に聞くと、初対面でも必ず子どもが寄ってくるそうです。

 

「動物も?」と聞くと

うん!

「変な人も?」と聞くと

そう、変な人によく声かけられる!

「女性は?」と聞くと

女だけは寄ってこない(笑)

寄ってくるのは必ず訳ありの変な女だけ!

 

爆笑しました。

 

帰り際「ご馳走様でした」と言うと。

 

「いやいや、こんなのご馳走でもなんでもないですよ〜」と笑顔で去って行きました。

 

帰る途中、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本の一節を思い出しました。

 

"愛とは何よりも与えることであり、もらうことではない。一番広く浸透している誤解は、与えるとはなにかを「あきらめる」こと、剥ぎ取られ犠牲にすること、という思い込みである。

 

商人的な性格の人は喜んで与える。ただしそれは見返りがあるときだけである。

 

与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる。そうした人から言わせると、与えることは苦痛だからこそ与えなければならないのだ。

 

与えるということは、自分のもてる力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。

 

私は、自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。

 

与えることはもらうより喜ばしい。

 

それは剥ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである,,

 

 

「ご馳走さまでした」と言った時の彼の本当に嬉しそうな顔を見て、ふとその一節を思い出し。

 

そう言えば、私は旦那に何かを与えられる人間でいられてただろうか、ふと我に返った。

振り返ると、いつももらってばっかりだったような気もする。

 

 

 家に帰って子供達を寝かしつけたら、「愛するということ」読み直してみよう。